3.11東日本大震災から5年と防潮堤と

今日、2016年3月11日は未曾有の大災害、東日本大震災から丸5年となる日です。

1万6千人近い犠牲者と、未だ行方不明の2561人。

地震そのものの怖さはもちろんのこと、犠牲者の9割以上の死因は溺死だったことを思えば、津波の恐ろしさを改めて感じます。

そして、1人でも多くの行方不明者が見つかることを願ってやみません。

 

最近の震災関連報道では、防潮堤問題が多く取り上げられています。

総工費1兆円をかけたその巨大プロジェクトは、東北3県の沿岸400kmを縦断、平均8mのコンクリートの壁を立てていくというものです。

そして、どちらかといえば最近の防潮堤報道は反対する声を多く取り上げている、というのが個人的な印象です。

海が見えなくなる景観のこと、国が一方的に住民の声を聞かず着工していることなどがその反対意見です。

それこそ400kmの沿岸に住む住民の総意、いや、個別の市町村ごとの意見を尊重することが大切だと僕も思います。

 

しかし、あえて反対の反対意見を述べさせて頂くと、あの恐怖に再び襲われてもいいのでしょうか。

たぶん、おそらく、心のどこかに「もう当分あの規模の津波な来ないのでは」という思いがあるのではないでしょうか。

被災から5年が経過し、ヘンな安心感みたいなものが生まれつつあるのではないでしょうか。

例えば、沿岸部400kmの住民の全員が、一人も防潮堤に反対だと言えば絶対的に不要な設備ですが、おそらく心が揺れている方が多いというのが実情ではないか、と勝手に想像します。

 

僕がニュースを見て気になったのは、防潮堤に反対する意見として「景観が損なわれる。海が見える美観を後世に残さねば」という意見が流れたときでした。

それはちょっと違うのでは、と。

例えば後世の人たちはひょっとしたら「前の世代の連中が防潮堤を立てなかったせいで」という可能性だってあるじゃないか、と。

例えば自分の世代の前の人たちが「景観を損なうので建造物はすべて木造平屋に」「木造平屋が景観上キレイなので建て壊すことなく後世に伝えること」などと決めていたら、現在の生活はどうなっていたことでしょう。

例えがちょっと下手で申し訳ありせんが、なんというか、価値観の勝手な押し付け、みたいに受け取ったしまったワケです。

ひょっとしたら次代の人たちは「防潮堤に囲われた景観」が、その人達の景観に成り得る可能性がある訳です。

 

この防潮堤問題は、どちらにしても100対0で単純決着する話しではなく、ホントに難しい問題だと思います。

それがホントに必要かどうかなんて再びあの津波が来ない限りはわからないというのも理由のひとつかもしれません。

津波も防潮堤もない世界が一番の理想ですが、そんなことも言ってられませんし。
今日、3月11日、14時46分には黙祷を捧げます。

犠牲になった方々にきちんと良い報告ができるような、あれからの5年、これからの未来になっているといいのですが。


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