3.11東日本大震災から4年であの瞬間の振り返り

daishinsai

今日で丸4年となります。

備忘録的に、あの日の個人的な出来事を綴っておこうと思います。

 

あの瞬間、僕は仕事の電話をしていました。

横浜の工場の女性事務員と納期について話をしていました。

揺れに先に気付いたのは僕でした。
「あ、地震」と僕。
「え、そうなんですか」と事務員。
「あ、けっこうデカイかも」と僕。
すると事務員「こっちも揺れてきた、あ、大きい。すげーヤバイ揺れです。あ、これは一回電話切ります」
と、電話を切られた瞬間、さらに大きな揺れが。

天井のボードが落ち、コピー機は暴れるように弾み、壁掛けの額縁やスケジュールボードなども床に落ちる。

ちなみにフロアには僕と先輩社員の2人だけ。

先輩社員は早くも机の下に潜っていました。

僕は頭上を確認し、エアコンが無いことを確認。

もしエアコンが落ちてきたらひとたまりもないので。

 

揺れが収まり、停電。

4Fにいた僕は窓にかけより周囲を見渡します

正面のビルの壁を這う配管が破裂し、水道だか下水が噴水のようになっているだけで、崩壊したビルとかはないみたい。

信号は停電となり、大渋滞となっていました。

僕のいたフロアはカードキーによるドアの開閉システムだったため、停電でドアが開かず。

しばらくして管理人がドアを開けにきます。

この時点で14時50分。

もともとの予定で15時にはクルマで10分ほどの駅に、東京から出張でくる人と合流する予定でした。

携帯は繋がらず。

先輩社員がスマホで確認したら、東北では震度7とのこと。

僕の勝手な思い込みで、神戸の震災では震度6で高速の橋脚は折れ、建物はほぼ倒壊するものと思っていたので、震度7では空襲後みたいな状況を想像していました。

 

駅で待っているであろう出張者を迎えに、停電の信号と渋滞を抜けながらクルマで駅に向かいます。

すると、駅の外には溢れんばかりの人が。

聞くと、駅構内は立入禁止になったとのこと。

携帯も繋がらず、うろうろしながら人探しをしていると、携帯が鳴ります。

出張者からの電話で、無事合流。

この出張者が持っていた電話こそ、PHSでした。

携帯電話は不通になっても、PHSは問題なく繋がる状況でした。

恐るべしPHS。

そして予定通り、訪問する予定だった会社に向かいます。

もちろん道路は停電による大渋滞。

15時30分の訪問予定が16時になりました。

道中、PHSから連絡を取るも、客の会社側が不通。

大渋滞の中考えたことは、ちょっと前に観た『2012』という映画のこと。

大地震の中、クルマで逃げまわるシーン。

実際にそんな状況になっても、この大渋滞じゃ何もできないな、と。

ガラスの壁が割れてしまったクルマのショールーム、2F部分がそのまま1Fを押しつぶした昔ながらの商店などを見ながら訪問先に。

 

訪問先は食品メーカーの工場。

駐車場に到着すると偶然にも担当者と遭遇。

製造ラインが壊滅状態となり、とても打ち合わせどころではないとのことですぐに引き返し。

東京の人はどうやったら戻れるか、を思案。

電車は止まってるだろうけど高速バスなら動いているかも、とのことで駅に送り届けます。

後日談ですが、結局高速バスも運行を取り止め、レンタカーを探すも空きは無し。

隣駅までタクシーで移動し、レンタカー最後の1台をゲットできたそう。

 

出張者を駅で下ろした僕は、そのまま帰宅することに。

先輩社員に電話したところ「帰っていいという連絡が本社から来ないから、まだ会社にいる」と。

思わず「バカじゃないの?」と言ってしまった。

会社のことより家族、自宅、心配すべきことは山ほどあるのに、帰宅許可の連絡待ちって。

自宅に向かいながら、もし家が崩壊していたら、と不安になります。

なんとか自宅に辿り着き、外観は問題無いことを確認し、家の中も奇跡的に無事。

その後は朝方までテレビに釘付けとなりました。

 

今日で4年。

もう4年、まだ4年、人によって感じ方は様々でしょうが、お亡くなりになった方のご冥福、未だ避難生活を余儀なくされている方の1日でも早い日常への復興を祈る一日としましょう。


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